会員の声

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水谷好克 氏(会員番号747)

   ■美の磁石
   ■デッサンの力
   ■ホキ美術館を訪れて

美の磁石

 この四半世紀ほど野田弘志さんに付いて、世界の多くの美術館を巡ってきた。パリのルーブル、オルセー、オランジェリー美術館、NYのメトロポリタン美術館、フリック・コレクション、アムステルダム国立美術館、ハーグのマウリッツハイス美術館、ブリュッセル王立美術館、ウィーンの美術史美術館、ボストンのイザベラ・スチュアート・ガードナー美術館、スペイン、ビルバオのグッゲンハイム美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、野田さん自身の個展が催されたベルギー、ゲントのヴェラヌマン美術館に二回、等々。

 野田さんと一緒に絵を見て回ると、いろいろ発見させられる。なるほど、そのように見るものか、と知ることができてとても楽しい。世界には真贋を疑問視される数点を含め、全部で37点のフェルメールがある。野田さんがその中で第一に評価するのはアムステルダム国立美術館所蔵の『牛乳を注ぐ女』、フェルメール26歳頃の、左側の窓から光のさす部屋に女性が佇むという形式を確立させた絵。フェルメールはこの絵で女性を美しく描こうなどとは全く考えていない。しかし、「このごつごつした人肌の、岩のような存在の重み。手で触ればずっと辿っていけそうな壁の質感」それが凄い、と野田さんは言われる。ふうむ。

ニューヨークにて アムステルダム国立美術館

 ワシントン・ナショナル・ギャラリーで大フェルメール展が催されたことがある。世界中から21点ものフェルメールが集まった。(『牛乳を注ぐ女』はこれには来ていなかった)鑑賞した一行、すっかり堪能した。ところがこの美術館には、ダ・ヴィンチの傑作『ジネブラ・デ・ベンチの肖像』がある。どうやって描いたものか白磁のような肌の、究極の作品だ。これを見た野田さんは言った「21枚のフェルメールが、全部吹っ飛んでしまった」。これには驚いた。…なかなか、こういう見方はできないものだろう。われわれはフェルメールを21点も見たという事実にもう満足してしまって、それでおしまいだった。野田さんはもう、真に美しいものにしか用がないのだ。美に吸い寄せられる磁石を見るように思う。

 ロンドン郊外のケンウッドハウスというところにフェルメールが1点ある。『ギターを弾く少女』。貴重な37点のうちの1点だから「見ておきたい」と思う。ところが野田さんは「どうしてもケンウッドに行かなきゃならないかなあ」なんて言う。「あたりまえです」と女弟子にたしなめられたりしていたが、実物を見てみると確かにフェルメールにしてはそう出来のよいものとは思われない。でもフェルメールなのになあ、とこっちは思うがなあ。

 またロンドン・ナショナル・ギャラリーにはフェルメール晩年の1枚『ヴァージナルの前に立つ女』がある。野田さんは何度も何度もこの絵の前に戻ってきて、「フェルメール晩年の作品には力がないと思っていた。その若い頃のものの見方を改めなきゃならんなあ」と嘆声。これはとてもいい、ということだ。非常に柔軟でもあるのだなあ、と思う。

 ビルバオでのアントニオ・ロペス展について、「ロペスという人は、否定しようと思っても、その作品の前に立つとどうしても唸ってしまう」「ひとっつも、粉を吹いていない」。ものを徹底的に描き切ると、絵の具はそのものになりきって、濡れて艶を帯びてそこに存在するようになる、そこまで描き切れていない絵は、粉を吹いて見える、と常々言われる。

 この一月、スペイン、ビルバオのアントニオ・ロペス展、イギリス、ロンドンでのレオナルド・ダ・ヴィンチ展、二つの大展覧会を野田さんたち一行と一緒に展観してきた。ダ・ヴィンチの新たに発見された真筆『水晶の玉を持つキリスト』は「まぎれもない真筆」と野田さんも言われるので、こういうものが見られてとてもうれしかった。

 ところが翌日、大英博物館の見学に行った。野田さんがしみじみと言われたこと、「ロペスもダ・ヴィンチもよかったけれど、今日のが一番いいなあ」これもびっくりして尋ねた「今日の、何がよかったですか」「エジプトの彫刻がいいなあ」うーん、そうか…。これは大英博物館に来ればいつでも見られる、という感覚はないのだ。そこがすごいなあ…。そうして、「人類はアーティストなんだなあ…」と。野田さんこそ…。

 囲碁・将棋、ゴルフなどの技術を磨く際、どういう人に教わるか、ということがおおいに大事だといわれる。へぼに教わっていては駄目で、その道を極めた人に教わらなければ上達しないという。絵を見る、ということも技術のひとつと思われる。野田弘志さんと一緒にいると、自分の、絵に関するアンテナが研ぎ澄まされて、感覚が何段階か磨かれるような気がする。もっともそう伝えると、野田さんは「そうか、おれは水谷といると、自分の感覚が何段階か鈍るような気がするんだが」などと、憎らしいことを言うのだが…。

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デッサンの力

 野田弘志さんはわが高校美術部の大先輩だ。われわれ美術部員たちがたむろしていた美術準備室には、思えばいち高等学校とは思えないくらい豊富な石膏像が備わっていた。初心者用のアグリッパ、ビーナス、ラボルト、メディチから、中級のゲッタ、カラカラ、シーザー、そうして上級者用といわれるブルータス、マルス、聖ジョルジュ、またミケランジェロにモリエールまであった。そして先輩方が描いたデッサンが大量に残されていた。東京藝大に行ったすごい先輩がいるぞ、と見せてもらったすばらしいブルータス像は、思えば野田さんの描かれたものだった。それは大胆繊細なものすごいもので、木炭紙が盛り上がって見えた。野田さんはこれらの石膏像を高校時代、ひと通りは全部描いたそうだ。そして、画家となった今では、油絵の具でデッサンをしているようなものだと言われる。

 写実の絵、というとき「写真」から絵を描く技術を教える大学があると聞く。すこぶるつまらないことと思う。ものをそっくりに描こうとする時、写真は確かに有効な道具だ。方眼に割り付けて拡大すれば、対象の形は少なくともそのままに絵に描くことができる。また、一枚のネガの持つ情報量は厖大なもので、濃いめ、通常、薄めと何枚も焼き付けることで、色や濃淡のさまざまの段階を調べることもできる。たとえば肖像画を描くには写真が必要な場合が多いだろう。世の中にはそういう需要も多かろう。しかし大学まで行って写実を極めようとする学生に、写真から描く技術など不要だろう。対象をじっくり観て、そのものの階調をしっかりと写しとる眼と技術をまず養わなければなるまい。それは土台をまず鍛えるということで、写真から描いたのではそのような土台は築けまい。写真から描こうとするその段階で、対象を自分の眼でしっかり見極めようという気迫は失われていよう。

 ピカソはデッサンの反故紙で、ひと冬の暖房がまかなえたという。それは伝説かもしれないが、それくらい基礎というのは大事だということなのだろう。野田弘志さんの言で、忘れ難い言葉がある。

 一番遠くに見える道ほど、実は、一番の近道に決まっているのだ。

 これは絵に限らず、他の藝術でも技能でも、また学問においても言い得る普遍的な真実と思われる。迂遠に見えようが愚直と思われようが、何事かを極めるには、裾野から一歩一歩登っていくしかないのだろう。野田さんの言葉は頂門の言葉だけに重みがある。美術部の野田さんの先輩がこんなふうに言った、「野田弘志という画家は、富士山でいえば天辺にいる人だ。てっぺんから裾野はよく見えるだろう。下から上は決して見えないが、上から下はよく見えることだろう」と。そういうものだろう。

 対象をよく見て、それを写し取るデッサンの力は、絵の骨格をかたちづくるものだ。野田さんの弟子の若い女流写実画家からこんなことを聞いた、「絵に描く対象は、いつも同じではありません。描く時々によって違って見えます。こちらの調子の違いもあります。押したり引いたり、そういうことを含めて描くのが、絵、だと思っています」と。そこに「存在しているもの」を描く、のが大事、ということなのだろう。写実の画家が写真から描くこともあるけれど、それはあくまでも方便だ。モデルにいつも目の前にいてはもらえないから、写真も参考書にする、といった類のことだ。見ることによってしか見えてこないものもあるだろう。写実の絵の至り極まったものからは、単にそのものの二次元への再現という以上のプラスα、香気、ともいうべきものを感じる。立体ならば指で触って、そのものの裏側まで辿れるように見える。そのものの重みや質感まで感ぜられる。また、空気の層を感じることもある。絵でなければ表現できないことだ。真に畏敬すべき、たいへんなことだと思う。

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ホキ美術館を訪れて

 一度は行ってみたいと思っていた念願のホキ美術館を訪れることができ、かつ野田弘志さん直々のギャラリートークを聴くことができて、大変充実した思いを味わった。そうして痛切に感じたことがある。それは、比べる、ということのおそろしさである。

 東京の画廊の専務からこんなことを聞いたことがある。たとえば3人展を催すとする。そうすると画廊を出ていく時、お客さんは、必ず誰が一番、次は誰、と順位をつけていかれるものだ、ということ。画家はそれぞれに全力で描いている。しかし観るほうはいともあっさりと、これはいい、これはちょっと、と順位をつけてしまうものだということである。ホキ美術館は細密に描かれた写実の絵の美術館で、写実の絵同士を比較する、という日常あまりない体験ができる。対象を自在にそっくりに写し取ることができる、ということはもはや当たり前、という前提で、さらにその先を求めることになるわけだから要求水準がたいそう高くなる。

 こんなのわざわざ絵で表現しなくたって写真に任せておけばよいではないか、という絵がある。突っ込みが足らない、と思われる絵がある。なんでこんな大きさに描かねばならないのかという絵がある。叙情に流されているなと思われる絵がある。並ぶほどにうすっぺらく見える絵がある。着せ替え人形のように見える絵がある。それ一点を見れば絵として成立しているのだろうが、こう細密に描かれた絵の中に混じると、写実の絵と見えない絵がある。明らかに物真似と思われる絵がある。品、というものが感ぜられない絵がある。

 野田弘志さんは、自分の絵は記号ではない、ものそのものだ、ということを言われる。そのことがとてもよくわかる。少なくとも、その狙いがよくわかる。存在の凄み、ということ、それは、狙わなければ画面にあらわれるはずもないのだということが、「比べる」ことによってよくわかる。ずどーんとそこにあるということ、写実ということは「実」を「写」す、ことなのだから、狙いは存在の凄みを二次元に再現することにあるはずだろう。しかしそういうものを初めから目標にはしていない絵が多すぎると思われた。そういう絵はそういう絵で需要のあることではあろう、しかし写実の本流とは思われない。自分としてはまん真ん中直球、という絵を観たいのだが、案外にそういう絵、少なくともそれを狙いとした絵は少ないのだな、ということを思った。

 ホキ美術館の野田さんのコーナーの照明はあまりよろしくない。有珠山を描いた、あれは400号ほどにもなろうかという巨大な絵は、斜め上からの明かりが画面上部に三重の影をもたらしている。あれは鑑賞の妨げだろう。照明はもっと、絵の正面からほしい。しかしそうではあるのだが、あの斜め上からの光線が、あの絵の表面の絵の具の凹凸のありようを見せて、重厚さを際立たせている、ということも思った。画面のどこを切り取っても均質な密度をもった絵を描きたい、という野田さんの姿勢がよく見える。あの絵のキャンバスが張られていくところから、完成して展覧会に出品されたところ、それを東京、大阪、北海道で自分は観てきた。しかしあのごつごつしたような画肌には気づかなかった。有珠山、その背後の空、そうしていわば地球そのものを描き取ろう、という野田さんの意志が、はからずもよく見ることができた、と思ったことだった。

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